性同一性障害特例法の性別変更要件に関する最高裁判決:背景、内容、影響、今後の課題
はじめに
本稿では、性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(以下「特例法」という)に基づく戸籍上の性別変更に関する要件のうち、特に「生殖能力を欠くこと」を求める規定の合憲性が争われた最高裁判所決定に焦点を当て、その背景、具体的な内容、社会への影響、および今後の法整備に向けた論点について専門的な観点から解説します。この決定は、特例法施行から20年近くが経過する中で提起された重要な判断であり、今後の関連法制度の議論に大きな影響を与えると考えられます。
法改正の背景と経緯
特例法は、心と体の性が一致しない性同一性障害者について、一定の要件を満たす場合に戸籍上の性別変更を認めるため、2003年7月16日に成立し、同日施行されました。この法律が制定された背景には、性同一性障害を持つ人々が戸籍上の性別と日常生活上の性別が異なることによって生じる様々な社会的・法的困難(結婚、相続、就職など)を解消する必要性がありました。
特例法第3条第1項は、性別の変更を申し立てるための要件を定めており、その内容は以下の5点です。
- 二人以上の医師により性同一性障害であることが診断されていること。
- 20歳以上であること。
- 現に婚姻をしていないこと。
- 現に未成年の子がいないこと。
- 生殖腺がないこと、または生殖腺の機能を永続的に欠くこと。
- その身体について、他の性別の身体の区分に係る性器に係るもの(性器)に近似する外観を備えていること。
これらの要件のうち、第5号の「生殖能力を欠くこと」および第6号の「性器に近似する外観を備えていること」は、制定当時から専門家や当事者団体などから、身体への不可逆的な医療行為を事実上強制するものであり、自己決定権や幸福追求権を侵害するのではないかという指摘がなされていました。しかし、法律は「家族関係の安定」や「社会の混乱防止」といった観点から、これらの身体的要件を盛り込む形で成立しました。
その後、これらの身体的要件の合憲性を巡る訴訟が提起され、2019年には最高裁判所が、第6号の「性器に近似する外観を備えていること」は合憲である一方、第5号の「生殖能力を欠くこと」については、憲法13条の幸福追求権の観点から「現在の社会状況の下では、もはや合憲とはいえない」とする初の違憲状態判断を示しました(最高裁判所大法廷決定令和元年5月29日、民集73巻3号414頁)。この2019年決定は、特例法の身体的要件に対する司法判断の大きな転換点となりました。
最高裁判所決定の内容と論点(令和5年10月27日)
そして、2023年10月27日、再び第5号の「生殖能力を欠くこと」を求める規定の合憲性が争われた事案において、最高裁判所大法廷は、この要件を違憲と判断する決定を下しました(最高裁判所大法廷決定令和5年10月27日)。これは、2019年決定の「違憲状態」から踏み込み、「違憲」そのものを宣言した画期的な判断です。
今回の最高裁判所決定の主要な論点は以下の通りです。
- 憲法判断の深化: 2019年決定では「合憲とはいえない」という表現に留まりましたが、今回の決定では「憲法13条、14条1項等に違反する」と明確に違憲性を指摘しました。
- 「生殖能力を欠くこと」要件の目的と手段の審査: 決定は、この要件が「性別の変更により生じるおそれがある社会全体の混乱を防止すること」を目的とするものと解釈しました。しかし、性別変更の事実が直ちに社会全体の混乱を生じさせるとはいえず、混乱が生じるおそれがあるとしても、この要件を課すことがその目的を達成するための「必要かつ合理的な手段」とはいえないと判断しました。
- 身体の自己決定権・プライバシー権の重視: 決定は、この要件が、生殖機能という個人の根幹に関わる身体に対する手術を要求するものであり、個人の尊厳及び両性の本質的平等に立脚する婚姻及び家族に関する事項を定めるについての国会の権限にも内在する制約に反するとしました。個人の尊重、自己決定権、プライバシー権が極めて強く及ぶ領域であり、本人の意に反する身体への侵襲を伴う要件は、必要最小限度のものでなければならないと判断しました。
- 立法府への期待: 最高裁は、今回の決定により特例法第3条第1項第5号の規定が効力を失うわけではないとしつつも、「速やかに検討し、改正などの措置をとる必要がある」と立法府に強く対応を促しました。これは、違憲判断を出しつつも、具体的な法改正の内容は立法府の裁量に委ねるという司法の謙抑性を示すものです。
なお、同じく身体的要件である第6号の「性器に近似する外観を備えていること」については、本件の争点とはなっていませんが、この要件の合憲性についても今後の議論が深まる可能性があります。
当事者および関連分野への影響
今回の最高裁判所決定は、性同一性障害を持つ人々にとって、戸籍上の性別変更に向けた身体的・経済的負担を軽減する可能性を開く画期的な一歩と言えます。
- 当事者の負担軽減: 生殖能力を欠くための手術(性腺摘出等)は、身体への不可逆的な影響を伴い、経済的な負担も大きいものでした。この要件が撤廃されれば、これらの負担なく性別変更の手続きを進められる可能性があります。これは、当事者の人権保障の観点から極めて重要な進展です。
- 医療現場への影響: 性別変更を希望する当事者に対する医療行為のあり方にも影響を与える可能性があります。これまで性別変更の要件として行われてきた手術の必要性や位置づけが変化し、医療機関のガイドライン等にも影響が及ぶことが予想されます。
- 今後の法整備への影響: 決定は立法府に対応を促しており、今後、特例法の改正に向けた議論が本格化すると考えられます。どのような代替要件が検討されるのか(あるいは身体的要件そのものが撤廃されるのか)、他の要件(例えば未成年の子の有無)の見直しも同時に行われるのかなど、詳細な検討が必要です。法改正のプロセスにおいては、当事者、医療専門家、法曹関係者、社会学者など、様々な立場からの意見が求められます。
- 社会全体への啓発: この決定は、性同一性障害やトランスジェンダーの人々が直面する課題について、社会全体の理解を深めるきっかけとなる可能性があります。人権や多様性に関する意識向上につながることが期待されます。
展望と今後の課題
今回の最高裁判所決定は、「生殖能力を欠くこと」要件を違憲と判断しましたが、特例法そのものが直ちに失効するわけではありません。決定は立法府に対して早期の法改正を求めており、今後の国会での議論が焦点となります。
今後の法改正に向けた主要な課題は以下の通りです。
- 「生殖能力を欠くこと」要件の具体的な改正内容: この要件を単に削除するのか、あるいは何らかの代替要件を設けるのかが議論の中心となります。諸外国の例なども参考にしながら、人権保障と社会の安定のバランスをどのように取るかが問われます。
- 他の要件の見直し: 未成年の子の有無や性器の外観に関する要件についても、今回の決定を契機に見直しの議論が行われる可能性があります。特に、国際的な潮流としては、身体的要件そのものを撤廃する方向へと向かっています。
- 戸籍制度との関連: 性別変更は戸籍制度に直接影響を与えるため、戸籍実務との整合性をどのように確保するかも重要な課題です。
- 当事者の声の反映: 法改正のプロセスにおいて、最も影響を受ける当事者の声が十分に反映されることが不可欠です。多様な当事者のニーズを踏まえた議論が求められます。
- 社会全体の理解促進: 法改正だけではなく、性自認に関する社会全体の理解を深めるための教育や啓発活動も並行して進める必要があります。
今回の最高裁判所決定は、日本におけるトランスジェンダーの人々の権利保障を考える上で極めて重要な意義を持つ判断です。今後の法改正に向けた動きを注視し、人権が最大限尊重される制度の実現に向けた議論が深まることが期待されます。
参考資料
- 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成15年法律第111号)
- 最高裁判所大法廷決定令和元年5月29日(民集73巻3号414頁)
- 最高裁判所大法廷決定令和5年10月27日
(注)上記は主要な参考資料の一部であり、詳細な議事録や検討会資料等については、各府省庁のウェブサイトなどで公開されています。