性的指向・性自認に関する理解増進法の成立:背景、議論の経緯、内容、論点、今後の課題
はじめに
本稿では、令和5年(2023年)6月16日に公布・施行された「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」(通称:理解増進法)について詳述します。本法は、性的指向やジェンダーアイデンティティ(性自認)に関する多様性への理解を深めることを目的としていますが、その成立に至るまでの過程や、法の内容、および今後の運用については様々な議論が存在します。本稿は、法の背景、成立までの複雑な議論の経緯、主要な内容、そして専門家や関連団体からの論点や今後の課題について、客観的な情報に基づき解説することを目的とします。
法制定の背景と経緯
性的指向および性自認に関する多様性、いわゆるLGBTQ+(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア/クエスチョニングなど)の人々が社会生活において直面する困難や課題は、近年、社会的な関心が高まっています。国際連合をはじめとする国際社会は、性的指向や性自認に基づく差別や偏見の解消に向けた取り組みを各国に求めており、主要先進国においても、差別禁止法制を含む様々な法整備が進められてきました。
日本国内においても、当事者からの声、社会の変化、そして国際的な潮流を受け、性的指向・性自認に関する法整備の必要性が認識されるようになりました。特に、2015年の渋谷区における同性パートナーシップ制度導入を皮切りに、地方自治体レベルでの独自の取り組みが進展し、国レベルでの対応を求める声が高まりました。
こうした背景のもと、国会においては超党派の議員連盟が中心となり、法案の検討が進められました。2021年には「性的指向及びジェンダーアイデンティティに関する理解増進を目的とする法律案」が一度提出されましたが、国会での審議には至りませんでした。その後、国内外からの要請、特にG7広島サミットを控えた時期に、改めて法案成立に向けた動きが加速しました。
法の詳細と主な内容
成立した「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」は、全14条および附則から構成されています。その主な内容は以下の通りです。
- 目的(第1条): 性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解増進に関する施策に関し、基本理念を定め、国の責務等を明らかにするとともに、基本計画の作成その他の必要な事項を定めることにより、性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解増進に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性を尊重することとされ、全ての国民が安心して生活できる環境の整備に資することを目的としています。
- 基本理念(第2条): 性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解増進は、全ての国民が、その性的指向又はジェンダーアイデンティティにかかわらず、個性及び能力を十分に発揮し、活動することができるよう、多様性が尊重される活力ある共生社会の実現に資することを旨として行われるものとされています。
- 国の責務(第3条)、地方公共団体の責務(第4条)、事業者の努力(第5条): 国、地方公共団体、事業者は、それぞれ基本理念にのっとり、理解増進のための施策を実施し、または協力する責務や努力義務が課されています。具体的には、広報啓発、相談体制の整備、当事者等の意見反映などが挙げられています。
- 基本計画の作成(第7条): 政府は、性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解増進に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、基本計画を定めるものとされています。この基本計画において、具体的な施策の方向性や内容が示されることになります。
- 学校における学習の機会の確保(第8条): 学校教育において、理解増進に資するよう適切な学習の機会を確保するものとされています。
- 相談体制の整備(第11条): 当事者等が抱える困難等に関する相談に応じ、必要な情報の提供及び助言を行うために必要な体制の整備等に努めるものとされています。
本法は議員立法として提出・成立しており、その公式な条文は衆議院や参議院のウェブサイトで参照可能です[^1][^2]。また、国会での審議の詳細は、衆議院議事録・参議院議事録に記録されています[^3][^4]。
[^1]: 衆議院 法案情報:https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/g21106012.htm (法案提出時点のもの。成立法とは一部異なる可能性あり) [^2]: 参議院 議案情報:https://www.sangiin.go.jp/japanese/gianjoho/gian/gian211/g21106012110.htm (成立法を含む情報) [^3]: 衆議院インターネット審議中継 議事録:https://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php [^4]: 参議院インターネット審議中継 議事録:https://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php
影響と論点
本法の成立は、日本において性的指向・性自認に関する多様性が法的に言及されたという点で、重要な一歩と評価される側面があります。これにより、国がこの問題に取り組む姿勢を明確にし、今後の具体的な施策展開への道筋を示したと言えます。特に、国や自治体の責務、基本計画の策定義務が明記されたことは、今後の行政による取り組みを推進する上で意義があると考えられます。
一方で、本法の成立過程においては、複数の論点や懸念が提起されました。主なものとして、以下の点が挙げられます。
- 「差別は許されない」文言の削除: 当初検討されていた法案に含まれていた「性的指向及びジェンダーアイデンティティを理由とする差別は許されないものである」という文言が、最終的な成立法では削除され、「不当な差別はあってはならない」という表現に変わりました。この変更は、差別の解消そのものを直接的な目的とするのではなく、「理解増進」に重点が置かれた結果であり、法の実効性や、差別からの具体的な保護につながるかという点について懸念が示されています。
- 「全ての国民が安心して生活できる環境の整備」条項の追加: 成立法の目的規定には、「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性を尊重することとされ、全ての国民が安心して生活できる環境の整備に資すること」という文言が追加されました。この「全ての国民」に言及する条項は、多様性への理解増進が他の国民の権利や安心感を損なうものであってはならないという、保守的な立場からの主張を受けて追加された経緯があり、今後の基本計画や個別施策において、性的少数者の権利保障がどこまで進むのか、あるいは抑制されるのかという論点を含んでいます。
- 「ジェンダーアイデンティティ」から「性自認」への変更: 法案提出時には「ジェンダーアイデンティティ」という言葉が使われていましたが、成立法では「性自認」という言葉に変更されました。これは、学術的な用語よりも、より一般的な言葉を用いるという意図や、一部での用語への抵抗感への配慮があったとされます。この変更自体が直接的な法の効果に大きく影響するわけではありませんが、議論の過程で用語の定義や解釈についても様々な意見があったことを示しています。
これらの論点は、単に言葉の変更に留まらず、法が性的少数者の権利保障にどの程度踏み込むべきか、という根本的な議論と密接に関連しています。当事者団体や人権問題に取り組む専門家からは、本法はあくまで理解増進に留まるため、差別禁止法制の早期実現など、より実効性のある法整備が必要であるとの声が上がっています。
展望とまとめ
性的指向・性自認に関する理解増進法は、性的少数者の権利保障に向けた日本の法制度において、国が初めて包括的な姿勢を示した画期的な法律であると言えます。これにより、今後、国や地方公共団体が理解増進のための具体的な施策を講じる基盤が整備されました。
しかしながら、前述の通り、本法は差別そのものを禁止するものではなく、その実効性や、当事者が直面する具体的な困難の解消に直結するかどうかは、今後の運用、特に政府が策定する基本計画の内容にかかっています。基本計画においては、法の基本理念に基づき、教育、職場、医療、住居など、様々な分野における具体的な課題に対応するための施策が盛り込まれることが期待されます。また、地方自治体における条例制定の動きにも影響を与える可能性があります。
今後の課題としては、基本計画の実効性確保、理解増進施策の具体的な内容と効果測定、そして差別禁止法制の必要性に関する継続的な議論が挙げられます。本法が、真に全ての国民が安心して生活できる共生社会の実現につながるためには、法の趣旨に基づいた着実な施策の実施と、社会全体の理解促進に向けた継続的な取り組みが不可欠です。本稿が、この重要な法制度に関する理解の一助となれば幸いです。